昭和四十五年六月七日 特別奉修委員


 続けるという事は、あんまりそんな事がそんなにおかげを頂き続けれるもんじゃないといったようなものではなくて、おかげは大体頂き続けれるものであり、又頂き続ける事が神様のお喜びであるという事です。
 「神にみまかせ」と教祖様はおっしゃっておられます。いわゆる神様任せの事ですけどね。その事一言一言が部分的な任せ方ではなくてね、神様にみまかせという事は、神様の言うて下さる、神様の教えて下さるその教え任せになる事だと。だから私はもうこれしこ神様任せになりよるとに、神様任せなら神様も氏子任せとおっしゃるが、氏子任せにはなって下さらないといったような見方、思い方をしますけどね。だから神様が氏子任せになって下さる程しの任せ方というのは、こちらがやはりみまかせ。それは教え任せになるという事。だから、これだから神様へ捧げてしもうとる訳ですから神様が私共に捧げ続けて下さる。だからおかげが頂き続けられる。私共は都合のよか事だけは任せるけど、都合の悪かことは任せられないというのでは。それを今日は教え任せと。
 例えば、今、久留米の野口さんがお届けされますように、昨日、息子さん達夫婦の屋移りの事でちょっと人間関係こんがらがってきとった。それでまぁすぐ行かれるはずの所だけど、まあまあとにかくお参りでもさせて頂いて、御理解でも頂いてそして行かなきゃ。まあ結局、息子達で行けなかったんですからお母さんが行って話しをつけてくるという訳になってくる訳なんですけれど。向こうがそういう理不尽な事を言うならこっちも言う事は言わなならんといったような普通ならそうでしょうけれど、昨日御理解を頂かれてからほんとにそれどころじゃなかったという事をね、例えば今日の御理解は、花嫁になる心とかね、花婿の心とか。家族が花嫁を迎えた時の心持ちとかといったような、そういうだからほんとにあの家を借りた時の事を思うたと言われるんですね。そしたらぜんぜん問題がなくなった。自分の心の中にですね、もうこっちからお菓子箱どんいっちょ買うて行って、まあお礼に行くべきという事にね、段々なったところが、丁度先方が留守だった。ところが今度は反対に向こうの方からみえておられてですね、向こうからこんがらがった事を言いよったのが、向こうの方から今度、とけてきておられるというおかげになってきてる訳ですよねぇ。
 ほんとに教え任せになるという事は、しかも今話しを聞くとまだ次から次の今日の屋移りの事までおかげになってきとる訳ですよねぇ。車もうちのを使って下さいといったような事になってきておる。と言うんです。なら、まだお菓子箱を向こうが見てる訳ないですよね。向こうは向こうで 【    】じゃないと。もう野口さんの気持ちが、もう本当に問題がなくなったところにですよね、いわゆる教え任せになって今日の御理解をこのまま持って行きゃいいと、こういう気持ちになれたところにそういうおかげになってる。まあ会うたらどうか言わにゃならんところを会いもせんで、しかも向こうから円満に出て来ておられるといったようなね、しかも今日の屋移りのところまでおかげがつながって。おかげとはそんなもの。つながるという事。ずーっと頂けれるという事。だからもう教え任せというかね、みまかせという事は、教え任せになってさえいきゃあ、昨日野口さんがほんとにあの生き生きとしたそれこそ花嫁の時のような心持ちというか、あの家はほんに無理言うて借りた時の事での心持ちというものをですよ、持ち続けるほんとの気持ちができておったからだ。だから教えを頂くとは、そんなもんだと思うですよね。それが頂き続けられるならば、なる程おかげも頂き続けられるはずだと。おかげっていうのは、山があるように言うけれど、私の場合はそれがね、なかなか実際はそれが切れ取る訳ですよね。切れたり弱まったりしている訳なんですよ。それでやはりおかげに【   】があるのであって、本当を言うたら、そのようにそういう教え任せにならせて頂いたら、いわゆるみまかせという事は、その時その事を任せるという事もありますけれども、それをまかせっきり、任せ続けれる、いうなら教えを頂くからその教え任せになるという事。教え任せになった生き方。この教えだけは守ったばってん、その次の教えは守っとらんじゃないけれども、うすい、野口さんの昨日のような切実さじゃなかった。問題を前にしとらんもんだからね、うかつにしてる訳なんだ。ぼんやりしてる訳なんだ。だからそれを、その位な初な気持ちで、例えば昨日の御理解のようにね、初な心持ちでその御教えが頂かれて、教え任せになるという事がそういうおかげは頂き続けられる。氏子が神様任せなら神様の方が氏子任せになると仰せられるのは、そういう事だと、私は思いますですね。どうぞ。